■ 女川原子力発電所・ふくしま希望市場見学&福島の被災者2名と交流 |
NACSでは有志により、被災地交流会を企画し、女川原子力発電所およびふくしま希望市場を見学し、 福島で被災された方2名との交流会を行いました。 交流会等の様子は以下のとおりです。 |
●日時: 2012年3月23日〜3月24日
●場所: ・東北電力女川原子力発電所 ・ふくしま希望市場 ・郡山市 ●概要: |
1.被災地の状況 東北新幹線仙台駅から女川まで約2時間半のバス移動。 仙台近郊ではバスの車窓から仮設住宅の存在が数ケ所確認できた。 大規模な仮設住宅群ばかりではないらしく、 多くのところは数棟が肩を寄せ合うようにして建っているだけである。 高速道路のすぐ脇に建てられた仮設住宅もあり、 騒音をはじめとして様々な面で生活環境の厳しさが見てとれる。
渡部所長の挨拶のあと、 広報担当者より東日本大震災による女川原子力発電所の被害状況の概要および 緊急安全対策等の対応について説明を受けた。 また、発電所構内・3号機タービン建屋見学後の質疑応答でも所長自らが対応され、 終始協力的な雰囲気であった。 3.ふくしま希望市場
福島第一原発事故後、 暫定規制値を下回っているにも関わらず福島の農産物が全く売れないという状況に直面し、 岡部氏らは「根拠のない区別をなくすために最善を尽くす」取り組みを始めた。 つまり、作り手側が完全に安全なものを作ることによって、 福島の安全性をアピールしていこうという活動である。 昨年は暫定規制値を下回る50ベクレル(ベラルーシ基準)を規制値として採用したが、 今年からはさらに厳しい10ベクレルを目指して活動を行っている。 土壌・用水・肥料など農地行程における4回の放射線検査と、 発送行程における3回の放射線検査を経て農産物は消費者に届けられる。 それだけ厳しいチェックを行うため、ふくしま希望市場に参加する農家は53軒に絞らざるを得ない。 サイトの販売利益は放射線関連の講演、生産・除線(除染)指導、 全国各地での農産物啓蒙販売などに当てるため、岡部氏らは費用持ち出しで運営を行っている。 「今年は作り手側が完全に安全なものを作ったうえで消費者側に安心・賛同してもらえるのか、 作り手と消費者が距離を縮めていく年にしたい」と語る岡部氏らの話からは、 消費者の福島アレルギーを払拭したいという強い想いが感じられた。 4.交流会 【ゲスト】 Sさん(富岡町出身、いわき市在住) Yさん(浪江町出身、福島市在住) 警戒区域内に震災前居住されていたゲスト2名をお迎えし、 @3月11日の行動について、A生活の再建になにが重要か、 B暮らしに欠かせない電気エネルギーについて思うこと、 Cエネルギーの消費地である首都圏の人に望むこと・知っておいてほしいこと、 の4点についてお話を伺った。
■Sさんの話: 自宅で立っていられないほどの揺れを感じたが、家は2×4でほとんど被害がなかった。 富岡町内の高台に位置するため、津波の被害のことも全く知らなかった。 携帯電話で高校生の娘と連絡がとれたので、 ところどころ陥没した道路を通っていわき市にいる娘を車で迎えに行き、夜10時頃に家に戻った。 停電・断水のためカセットコンロで温めて夕食をとり、そのまま就寝した。 翌朝6時に防災無線で原子力災害のため川内村に避難するようにという放送があったため、 現金・貴重品・毛布・水などを車に積んで8時半頃出発した。川内村には10時頃着いたが、 避難場所が一杯で受け入れが出来ないと断られたため、田村市、三春、郡山と移動し、 ようやく夜の9時半頃に避難所に入ることが出来た。ところが、夜の11時半頃、 富岡町の人は放射能スクリーニングをするので起きてほしいと言われて寒い校庭で待たされた挙句、 夜中の1時半には隔離されるように別の体育館に移動させられた。 自衛隊の給水車1台しかないような体育館で2日間滞在することになり、 それ以上そこで過ごすことに限界を感じて14日に猪苗代のホテルに避難し、 そこで初めて原子力事故のことを知った。車で避難する途中、スーパーで買い物をしようと思ったが、 棚には何もないような状態。お金や毛布を持って出たから自分はまだ良かったが、 富岡町の知り合いの中には、普段の防災訓練の感覚で、エプロン1枚で避難してしまった人もいた。 数日後に旅行に出る予定があり、車のガソリンが満タンであったことも幸いした。 ■Yさんの話: 地震発生時は大熊町の事務所内におり、外に出てみると地割れし、家屋が倒壊していた。 急いで浪江町に戻る途中で信号待ちをしていると、川に線路が崩落している様子が見えた。 海の方向に黒い帯が見えたが、いま思えばそれが津波だったのだと思う。 築100年の総瓦の自宅はビクともせずに78歳の両親も無事だった。コンビニで買い物をしたあと、 停電・断水のため石油ストーブを奥から出してきて中華鍋で冷凍チャーハンを温めて夕食をとった。 長女は第一原発の事務職で3時半頃職場から帰宅させられたが、 道路が渋滞のため夜9時半頃家にたどり着いた。夜中に帰宅した主人からは、 請戸地区が津波で全部流されたことを聞かされた。翌朝、 防災無線で原子力災害による避難勧告があったので、毛布・貴重品・パソコンを持ち、 犬を連れてプリウスに乗り避難した。 避難場所に指定された浪江町津島地区に駐車スペースがなかったのでやむなく川俣町に移動したが、 途中、スーパーで日持ちのする物やフライパンを購入し、 近所の人に湧水の場所を教えてもらうなど親切にしてもらった。 避難所では双葉町民の40歳以下の人にヨウ素剤を配っていたが、双葉町民以外の自分達にはなかった。 体育館では班分けをして安否確認ボードを作るなどして過ごしたが、 13日に父親の体調が悪くなったため飯坂温泉にペットOKの宿を探して泊まった。 4号機の水素爆発があった15日には雪が降り、給水車に並んでいた娘は被爆してしまった。 新潟県の柏崎刈羽原発が見えるところにしばらく避難し、5月に福島に戻ってきた。 ■震災に対する備えの大切さ ・震災発生後1週間は行政が機能せず、誰も助けてくれない。自力で何とかするしかない。 ・水を買い置きする、大事な物をまとめておくなど、常々準備しておくことが必要。 ・逃げていく伝手(つて)としてネットワークが必要。 ・情報開示、避難誘導、避難道路の確保、それらを含めて安全対策を行うべき。 ■震災後の生活について ・半年までは緊張感で頑張れるが、その後ガタっときて亡くなった方が多い。 ・一時帰宅するのも善し悪し。自分の家は住める状態なのに住むことが出来ない。 もう1回帰ってきて、この町を復活させることができるのだろうかと思うと空虚な気持ちになる。 ・福島の人はお年寄りも含めて、福島県産の食品を食べない。 放射線に関する正しい知識を身につける教育が必要。放射線測定器を配布しているが、 0でなければダメという人に渡しても意味がない。 ■その他 ・ニュースでは津波のひどい所の情報が取り上げられ、 自分のところも同じ状況だという意識がなかった。 ・16日以降、 水素爆発の情報によってガソリンをはじめとした物資が福島県内に入ってこなくなってしまった。 A生活の再建になにが重要か 先が見えること。雇用、賠償…どうなるのか、いまは全く分からない。きちんとした展望がないと、 生活設計が立てられないので若い人が逃げていく。建築、介護以外の雇用がないので、 優秀な人ほど外に出て行ってしまう。若年層が減ると、福島県が疲弊していく。 B暮らしに欠かせない電気エネルギーについて思うこと ・将来的には再生可能エネルギーも有効だが、 今の日本の経済・産業が動かないのであれば原子力も必要。 ・南相馬のメガソーラー計画について、 対象地になっている市民は直接会社から話を聞いたことはない。 ・値上げも嫌だ、原発も嫌だと言うなら、一体自分が何を選択するのかを、しっかりと考えてほしい。 家庭の節電だけでなく、日本の経済のことなども全部含めて考えてほしい。 ・「喉元過ぎれば熱さ忘れる」でなく、エネルギー問題を自分のこととして考え、 もう一度家庭での電気の在り方について見直すべき。 Cエネルギーの消費地である首都圏の人に望むこと・知っておいてほしいこと ・宮城、岩手のがれき処理に強固に反対するのはなぜか。 福島が原因なのであれば他県の人に申し訳ない。 自分としては放射性物質に汚染された土壌などの中間貯蔵施設を福島第一原発近辺で 引き受けるのもやむを得ないと思っている。 ・(エネルギーの選択、がれき処理など)現実と正しく向き合うためには、 社会に出てからの市民教育が必要。 福島第一原発事故発生からこれまでの間、お二人が大変な生活をされてきたことを考えると、 軽々しく発言することが憚られ、胸を締め付けられるような想いであった。 お二人とも時折涙を浮かべられることはあっても、終始冷静さを保ち、 今後のエネルギー問題や原子力発電の在り方について客観的に話をされる姿が印象的であった。 気力をふり絞って話をしてくださったお二人の気持ちに応えるためにも、 託された課題に取り組む姿勢が我々に求められる。 5.各地の放射線量(3月23日計測 単位はμSv/h) 参考までに、東京から持参した簡易計測器でそれぞれの地点で、放射線量を計測しました。 東京駅:曇り 0.047 仙台駅:曇り 0.062 女川発電所:曇り 0.055 郡山市内:雨 0.578 *雨が降ると大気中の自然に存在する放射性物質が地上に降ることから線量率の上昇が 見られることがあるため、天候も記載。 |
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